相手が自分に興味があるか知りたいなら、言葉の語尾に注目
会話の上手い人は「↑」を意識している
言葉を追うよりも「音」を追う
嘘をつく人の3つの特徴と身体の変化って一体どんなもの?
嘘をついている人の3つの特徴
嘘をつく人って3つ特徴があるんですって
嘘は身体の変化にも現れる
自分の意識は無意識で身体に現れている
言いたいことがあるのに「言わない選択」をしている人に口撃してしまった日
感情のコントロール。感情は時に拒否して、時に魅力的な存在。
可愛い子には旅をさせよ。思うままに旅をして傷つくことがあっても。それでも信じている
「可愛い子には旅をさせよ。」
じっと見守って信じて待てるかな?
息子はそのうちアメリカに住みたいと言っている
テキサス州でのんびり暮らしたいんだって。
仕事はどうすんの?
のんびりってあんた・・・って
本当に血は争えないというか。
わたしの息子に間違いない発想で
相変わらず素敵な奴だと思ってしまいます。
息子とは離れて暮らしているから、話もしていない。
ただ、風の便りでそんな風に彼が言っていると聞いた。
わたしもここ数年旅をしている。
居場所も寝場所も特定しない旅。
そんな娘に母は何も言わずに
ただ
「あなたを信じている」とそう言ってくれた。
大人になっても傷つく時は傷つくし
わたしは強い人間でも何でもないから
今でも泣いて母に電話するときがある。
遠く離れた場所にいるから、すぐに飛んで行けないと
母はそう言って、帰られるだけのお金をくれる。
わたしにとっては過去経験したことのない
母からの援助だ。
何かにつまづいて、悩んで、辛くて
悲しい思いをしているんだろうと思っていても
母はいつも笑ってくれる。
笑って、
「いつでも帰って来なさい。待ってるから」
としか言わない
母はわたしが選んだことに一切の異論を唱えることは
無かった。これまでも、今もそうだ。
親の
「あなたを信じている」という言葉は
「本当にわたしを愛してくれているんだな」に
変換されて、私の潜在意識に浸透していく。
可愛い子には旅を思いっきりさせて
思うままに旅をして傷ついても
「あなたを信じている」という気持ちは
離れていても人の心を成長させてくれるものなんだな。
私も子供達とは随分離れた所にいるけど
「あなたたちを信じている」という言葉を
この空間に発信していようと思う。
いつも、信じている。
どこにいても
何をしていても
どんなに離れていても
たとえ、会えなくても
わたしはずっと、あなたたちを信じているよ。
この空間は繋がっているからきっと
私が想い続けている事が
彼らに「愛情」として届くことも信じている。
今日は次男の誕生日。13歳になった。
おめでとう。
あなたの未来はいつも輝いていることを
お母さんはいつも信じています
【愛ってなんだろう?】愛はテクニックなんだ。という言葉に納得せざるを得ない理由があった
潜在意識ってなんだと思いますか?
と聞かれた事に対して
「愛」ですと短絡的に答えていた時があります
「愛」という言葉で一括りにしてしまえば
どうとでも解釈の幅はあるし何にでも当てはめられる。
言葉とは本当に便利で曖昧なものです。
科学者でもその事を解明出来ていない
「愛の力」について
アインシュタインもこんなふうに語っています
「私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが、私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。
必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを社会が受け容れられるほど進歩するまで、お前にこの手紙を守ってもらいたい。
現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。この宇宙的な力は愛だ。
科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。
愛は光だ。
それは愛を与えかつ受け取る者を啓発する。
愛は引力だ。
なぜならある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。
愛は力だ。
なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。
愛は展開し、開示する。
愛のために私たちは生き、また死ぬ。
愛は神であり、神は愛だ。
この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。
これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。
それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。
愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。
「E = mc2」の代わりに、私たちは次のことを承認する。
世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。
私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは急を要する。
もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。
恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。
しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さな、しかし強力な愛の発電機をもっており、そのエネルギーは解放されるのを待っている。
私たちがこの宇宙的エネルギーを与えかつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル、私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。なぜなら愛こそが生命の神髄(クイントエッセンス)だからだ。
私は自分のハートの中にあるものを表現できなかったことを深く悔やんでおり、それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。
恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに到達したことを、お前に告げる必要があるのだ」。
愛の力は科学では推し量る事のできない
絶対的な意志であると、思っていたから
わたしもきっと、意味は分からずとも
潜在意識の存在を「愛」と定義していたんだと思います。
人は解らないことは出来ない
しかし、解らない事はできない。というのが
人というもので。
愛を表現しなさい。と言われても
それは、やはり明確にこうである。という事は
できないのです。
ただ、その時出会った方は
「愛」を「テクニックである。」と言いました。
何を唐突にそんな!!!
テクニックって。。。。なんだか、その表現が
小手先でだまくらかす見たいな、、、、
「愛」という崇高な言葉に対しテクニックって・・・・
と、自分の中でツッコミまくっていたのですが
わたしの解釈とはそんなものです。
しかし、それをサラッと言ってしまうのにも
わけがあるわけで。(だじゃれではない)
愛とは「テクニックである」に納得せざるを得ない理由があった
愛とは
テクニック=工夫すること
なんですって。
(ちょっと難しい表現になります)
そのものの本質を理解するために
万物は変化をするということを前提として、日々、工夫して観る。
知ることは行うことの始まりであり
行うことは知ることの完成である。
つまり、工夫して改善するという繰り返しが「愛」であると。
例えば
奥さんが何かに悩んでいるような素振りがあったとします
「この間のようなつまらない話を聞かされるんだろうか」
など、考える。「黙って聞いとくか」といつもと同じようにする
んではなく
ちょっと工夫してみる(視点を変える)
もしかしたら、体調も優れないのではないか?
子どもの事も気になってるんじゃないか?
質問の内容を変えてみる。(行動)
いつもと違ったアプローチを試して観る
新しいことが解る。(相手の知らないことが知れる)
めちゃめちゃ具体的になってきましたが
本質を知ろうとする行動こそが「愛そのもの」である
何なのかというと
本質を知ろうとする
その行動こそが「愛」であると言っているのだろうと思います。
確かに、「それがなんであるか」を知っている人が
この世界に何かを生み出して来たわけですから
納得出来ます。
となると、子供を生み出せる女性は無意識ですでに
それがなんであるかを知っているということになります。
女性は偉大です。
神がこの世界を作ったというなら
きっと「神」はこの世界がなんであるかを一番知っている。
iPhoneがなんであるかはアップルの人が一番よく知っている
だとすると、「愛」とはなんであるか?を知ろうとして
行動した人が「愛」をよく知っている。ということなんでしょう。
愛を知るには「テクニック」
工夫して観る。ということ
あれから2年。少しはテクニシャンになれただろうか・・・
うん。大丈夫。
言い合いできない関係は殴り合える関係よりよっぽど辛い
「無駄にケンカしない」
「言い合いになることがあまりない」
その関係が一番辛いと思った事がある。
小さい頃はケンカしている親を見るのが
とても辛かったから
今日は平和であるように。と何も起こらない事を
望んでいたりもしたけど
それは、両親の
「自分を解ってもらいたい。」という感情の叫びみたいなものを
見ると、心の中でモヤモヤが増幅するのが嫌だったから。
親に大声で「ムカつくー」とか一回叫んでみたいと
どっかで思っていたようなきがする。
「昨日さ。親とケンカしたんだー。言い合いになってさ」
っていう話しを聞くと
「親に文句言うなんて、わたしにはありえない」
って思うのと同時になんだか羨ましくもあった
素直になれずに感情の抑えが効かなくなったとき
いつも本当に自分の気持ちを伝えたい人に
素直に「バカヤロー」とか「気に入らない」とか言えなくて
封じてしまった自分の感情の抑えが効かなくなったときは
ある日突然
「自分が積み上げた経験や学歴や人間関係を破壊する」
という行動でしか
自分の感情を吐き出せないという時期もあった。
相手を責める事はしない。だから自分を責める事で
安心する。それがずっと続いていた。
自分よりも優位と思った立場の人に対しては
ずっとそれが続いていく。優位って偉い人ってだけじゃなくて
親という
絶対的に自分より優位な存在に対してそうだったように
自分に何かを教えてくれる人や自分の存在を本当に
認めてもらいたいと思っている人に対して
いつもそんな風に自分の「あり方」を決めつけてしまうように
なっていた。
それがわたしの「あり方の癖」だった。
素直さへの転機
そんな私が
親以外の人に始めて叱られて殴られたのは18の時で。
ぶすくれて、斜めに世間を見てて、人のことなんてお構いなしで
「どうせ、この大人も自分の損得だろ」なんて思ってたから
当然、態度は傲慢だった。
わたしの態度やあり方に相当憤っていたんだろうな。
「いい加減にしなさい!」と本気で激怒して殴って・・
だけど、それから自分の事を
本当に「少しずつ」言えるようになった
まだまだ、習慣は残っていたし、癖は繰り返したけど
人と本気でぶつかる事がちょっとずつ出来るようになれた
親にはまだ言えない事が山ほどあったけど
言葉に出さなくても解るだろうという思い込みを外す
気づいたのは
何も言わなくても解るなんていう憶測めいた事なんて
単なる思い込みでしかなくて
人にはちゃんと伝えたい事は伝えた方がいい。
自分の気持ちを言い合えない関係なんて
ただの妄想ゲームにしか過ぎなくて
だったら、殴り合ってぶつかり合える方がよっぽど気分がいい。
相手の感情が拳になってでも、それを受け止められて
痛みを知る方がよっぽどマシ。
それもわたしと相手の新たな関係で気づいた事だった
何も言わず。何もせず。
ただ、自分の頭の中で、自分と相手の情報を処理して
決めつけて終わらせるなんて、辛すぎる。
本当に辛い。
本気で自分に向き合ってないからきっと
相手にも本気で向き合えない
あの時こう言えばよかった。この時こう言えばよかったなど
反省や後悔をすることになるぐらいなら
本当にその人と解り合いたいなら
一言でもいいから
「バカ」と呟いてみて欲しい。
「本当に好きだ」と言ってみて欲しい。
そのほうがきっと、
何も言わないよりも後悔しないですむから