潜在意識と自己暗示のサイト

I.O.公式ブログ「ストーリーを語ろう。人生のクリエイターになろう。」

【愛ってなんだろう?】愛はテクニックなんだ。という言葉に納得せざるを得ない理由があった

潜在意識ってなんだと思いますか?

と聞かれた事に対して

 

「愛」ですと短絡的に答えていた時があります

 

「愛」という言葉で一括りにしてしまえば

どうとでも解釈の幅はあるし何にでも当てはめられる。

言葉とは本当に便利で曖昧なものです。

 

科学者でもその事を解明出来ていない

「愛の力」について

 

アインシュタインもこんなふうに語っています

「私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが、私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。

必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを社会が受け容れられるほど進歩するまで、お前にこの手紙を守ってもらいたい。

現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。この宇宙的な力は愛だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。
愛は光だ。
それは愛を与えかつ受け取る者を啓発する。
愛は引力だ。
なぜならある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。
愛は力だ。
なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。
愛は展開し、開示する。
愛のために私たちは生き、また死ぬ。
愛は神であり、神は愛だ。

この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。
これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。
それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。

愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。
「E = mc2」の代わりに、私たちは次のことを承認する。
世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは急を要する。

もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。

恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さな、しかし強力な愛の発電機をもっており、そのエネルギーは解放されるのを待っている。

私たちがこの宇宙的エネルギーを与えかつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル、私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。なぜなら愛こそが生命の神髄(クイントエッセンス)だからだ。

私は自分のハートの中にあるものを表現できなかったことを深く悔やんでおり、それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。
恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに到達したことを、お前に告げる必要があるのだ」。

 

愛の力は科学では推し量る事のできない

絶対的な意志であると、思っていたから

 

わたしもきっと、意味は分からずとも

潜在意識の存在を「愛」と定義していたんだと思います。

 

人は解らないことは出来ない

 

しかし、解らない事はできない。というのが

人というもので。

 

愛を表現しなさい。と言われても

それは、やはり明確にこうである。という事は

できないのです。

 

ただ、その時出会った方は

「愛」を「テクニックである。」と言いました。

 

何を唐突にそんな!!!

 

テクニックって。。。。なんだか、その表現が

 

小手先でだまくらかす見たいな、、、、

 

「愛」という崇高な言葉に対しテクニックって・・・・

と、自分の中でツッコミまくっていたのですが

わたしの解釈とはそんなものです。

 

しかし、それをサラッと言ってしまうのにも

わけがあるわけで。(だじゃれではない)

 

愛とは「テクニックである」に納得せざるを得ない理由があった

 

愛とは

テクニック=工夫すること

なんですって。

 

(ちょっと難しい表現になります)

 

そのものの本質を理解するために

万物は変化をするということを前提として、日々、工夫して観る。

 

 

知ることは行うことの始まりであり

行うことは知ることの完成である。

 

つまり、工夫して改善するという繰り返しが「愛」であると。

 

例えば

 

奥さんが何かに悩んでいるような素振りがあったとします

「この間のようなつまらない話を聞かされるんだろうか」

など、考える。「黙って聞いとくか」といつもと同じようにする

 

んではなく

 

ちょっと工夫してみる(視点を変える)

もしかしたら、体調も優れないのではないか?

子どもの事も気になってるんじゃないか?

 

 

質問の内容を変えてみる。(行動)

いつもと違ったアプローチを試して観る

 

新しいことが解る。(相手の知らないことが知れる)

 

めちゃめちゃ具体的になってきましたが

 

本質を知ろうとする行動こそが「愛そのもの」である

何なのかというと

 

本質を知ろうとする

その行動こそが「愛」であると言っているのだろうと思います。

 

確かに、「それがなんであるか」を知っている人が

この世界に何かを生み出して来たわけですから

納得出来ます。

 

となると、子供を生み出せる女性は無意識ですでに

それがなんであるかを知っているということになります。

女性は偉大です。

 

 

神がこの世界を作ったというなら

きっと「神」はこの世界がなんであるかを一番知っている。

 

iPhoneジョブズが作ったから

iPhoneがなんであるかはアップルの人が一番よく知っている

 

 

だとすると、「愛」とはなんであるか?を知ろうとして

行動した人が「愛」をよく知っている。ということなんでしょう。

 

 

愛を知るには「テクニック」

 

工夫して観る。ということ

 

あれから2年。少しはテクニシャンになれただろうか・・・

うん。大丈夫。

言い合いできない関係は殴り合える関係よりよっぽど辛い

「無駄にケンカしない」

「言い合いになることがあまりない」

 

その関係が一番辛いと思った事がある。

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小さい頃はケンカしている親を見るのが

とても辛かったから

今日は平和であるように。と何も起こらない事を

望んでいたりもしたけど

 

それは、両親の

「自分を解ってもらいたい。」という感情の叫びみたいなものを

見ると、心の中でモヤモヤが増幅するのが嫌だったから。

 

 

親に大声で「ムカつくー」とか一回叫んでみたいと

どっかで思っていたようなきがする。

 

「昨日さ。親とケンカしたんだー。言い合いになってさ」

 

っていう話しを聞くと

 

「親に文句言うなんて、わたしにはありえない」

 

って思うのと同時になんだか羨ましくもあった

 

素直になれずに感情の抑えが効かなくなったとき

 

いつも本当に自分の気持ちを伝えたい人に

素直に「バカヤロー」とか「気に入らない」とか言えなくて

 

封じてしまった自分の感情の抑えが効かなくなったときは

 

ある日突然

「自分が積み上げた経験や学歴や人間関係を破壊する」

という行動でしか

 

自分の感情を吐き出せないという時期もあった。

 

相手を責める事はしない。だから自分を責める事で

安心する。それがずっと続いていた。

 

自分よりも優位と思った立場の人に対しては

ずっとそれが続いていく。優位って偉い人ってだけじゃなくて

 

親という

絶対的に自分より優位な存在に対してそうだったように

自分に何かを教えてくれる人や自分の存在を本当に

認めてもらいたいと思っている人に対して

 

いつもそんな風に自分の「あり方」を決めつけてしまうように

なっていた。

 

それがわたしの「あり方の癖」だった。

 

素直さへの転機

 

 

そんな私が

親以外の人に始めて叱られて殴られたのは18の時で。

 

ぶすくれて、斜めに世間を見てて、人のことなんてお構いなしで

「どうせ、この大人も自分の損得だろ」なんて思ってたから

当然、態度は傲慢だった。

 

わたしの態度やあり方に相当憤っていたんだろうな。

 

「いい加減にしなさい!」と本気で激怒して殴って・・

 

だけど、それから自分の事を

本当に「少しずつ」言えるようになった

 

まだまだ、習慣は残っていたし、癖は繰り返したけど

人と本気でぶつかる事がちょっとずつ出来るようになれた

 

親にはまだ言えない事が山ほどあったけど

 

言葉に出さなくても解るだろうという思い込みを外す

 

 

気づいたのは

何も言わなくても解るなんていう憶測めいた事なんて

単なる思い込みでしかなくて

 

人にはちゃんと伝えたい事は伝えた方がいい。

自分の気持ちを言い合えない関係なんて

ただの妄想ゲームにしか過ぎなくて

 

だったら、殴り合ってぶつかり合える方がよっぽど気分がいい。

 

相手の感情が拳になってでも、それを受け止められて

痛みを知る方がよっぽどマシ。

 

それもわたしと相手の新たな関係で気づいた事だった

 

何も言わず。何もせず。

ただ、自分の頭の中で、自分と相手の情報を処理して

決めつけて終わらせるなんて、辛すぎる。

 

本当に辛い。

 

本気で自分に向き合ってないからきっと

相手にも本気で向き合えない

 

あの時こう言えばよかった。この時こう言えばよかったなど

反省や後悔をすることになるぐらいなら

 

本当にその人と解り合いたいなら

 

一言でもいいから

「バカ」と呟いてみて欲しい。

「本当に好きだ」と言ってみて欲しい。

 

 

そのほうがきっと、

何も言わないよりも後悔しないですむから

運命なんて、その瞬間確定できるはずもない。わたしを重ねて始めて運命が確定する

「最初はビビッと運命を感じたんです。」

「運命の人に出会えた!ってそう思ったんです。」

だけど・・・

なんて、どこかで聞いたことのある話。

これが運命の出会いだ!
って思って購入したバッグも洋服も

瞬間そう感じて
「その運命のもの」と共に過ごす中で
また、色んな運命と感じられたモノと出会っては忘れ去られていく

 

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それは運命じゃなくて「出会い」

「運命だと思ってそうした」事も、
毎日自分が変化を繰り返す中で「そう思えない」
というものにも変わって行く。

その瞬間に「たしかにそう思った」という事実は
間違いないだろうけど

それは単なる「出会い」にしか過ぎなくて
きっかけを得ているだけ

ただ、瞬間にそう思った事を大事に大切に
守って育てて、共にあり続けたとしたら

それはやっぱり
「運命だったんだ」と始めて確定されるんだと思う。

 

運命は選択の中にいつもあるもの

それはきっと
わたしを毎日積み重ねていく中でしか解らない。

今は単なる出会いの段階なだけでも

なぜだかいつも「わたしと共に有り続けていたな」という
事実に気づいた時に初めてそれが「運命」だと認識できるんだろう

それは目に見えなくても

いつも心の中にあった人かも知れないし
だれかの言葉だったかも知れないし

目に見えてそこにある

本や、雑誌や、バッグかもしれないし、人かも知れない


わたしはいつも今の自分が考えている自分の価値観は
たまたま出会った言葉で
自分がその様に選択して身に付けただけだと思っていて

私に影響をさせたくないことなら
すぐに手放してしまおうと思っている。

「コノヤロー頭から離れない」と思うことがあっても
たまたまそうなってるだけだと思ってもいる。

単に出会ってしまっただけだから。

でも、もし
嫌な自分でも大切に握り締めて共にあることを選んだなら
それが「わたしの運命」になるんだろう。

 

運命は変えられる

運命は変えられるっていうのはホント。

私が何を大切にしたくてどんな考えと共に居たいのか
そして、それをどうやって発展させて積み重ねるのか

その過程では「出会いしかない」けど

きっと、いずれ自分の「運命」に気づく時が来ると思う。
気づこうとしなくてもきっと「解る」時が来る

出会いで全ては決まらない。
運命は確定されていない。

選択し続けるものの中にいつもあるものが運命になっていく
だから、いつでも運命は変えられる

人には4つの痛みがある。中でも唯一他人が介入できない痛みとは

人には4つの痛みがあるという。
 
肉体的なもの
精神的なもの
社会的なもの
 
そして魂
 
これは終末医療の現場でよく聞く事ですが
医療を学んでいる人でも、最も解明出来ないもの
 
そして、唯一他人が痛みを取り除けないものが
 
「魂の痛み(スピリチュアルペイン」
であると言われています。
 
 

スピリチュアルペインについて

 
「自分は何のために生きてきたのか」
「自分は生きた価値があったのだろうか」
「この苦しみにはどういう意味があるのだろうか」

「神様がいるとしたら自分は救われるのだろうか」

 
これがスピリチュアルペインの中身。
 
それは、肉体的な痛みよりも辛いため
あえて体の痛みを感じるように求める人もいるそうです。
 
 
実際、スピリチュアルペインについては
どんな本を読んでも抽象的な表現であり
その人の解釈の幅が広がらない限り
答えにたどり着く事はないだろうと思えてきます。
 
 

幼少期に体験したスピリチュアルペイン

 
わたしが自分を最初に「知りたい」と思ったのは
宇宙をテーマにしたアニメを見た時。
 
見たこともない宇宙
見たことのない世界。
それがものすごくリアルに感じて
 
同時に
生きている自分について
疑問が湧いて来て急に怖くなりました
 
「死んだらどこへ行くんだろう
死んだらどうなるんだろう。
なぜ生きてるんだろう。」
 
毎日そんな事を考えていたのは
小学生低学年ぐらいだっただろうと思います。
 
お父さんに話したら
「そんなもん、死んでみなわからん」と
言われて終わったけど。
 
 

命の探求は痛みから始まった

 
潜在意識の事を知りたかったのも
心理学を学んだのも
その時、興味が湧いたから。という理由ももちろんありますが
 
なによりも
「自分の一番知りたかった答え」に
たどり着きたかったんだと思います。
 
 
心理のことは学びに終わりがないと
よく言いますが、それはきっと
学ぶほどにこの「魂」の領域に近づくからで
 
これは精神だけではなくて
 
科学もそうだと思います。
 
この地球や生命体全てを解明し続けていることに
終わりはなく、学ぶほどにどんどん
物質の成り立ちの根源に近づいていく。
 
この世のほとんどが科学で解明されていますが
 
最終的には明確な答えなど、まだ出てはいない。
 
 
だから人はずっと「それがなんであるか」を
探求し続けているんだと思います。
 
 

魂の痛み「自分は何のために生きているのか」の答え

 
 
魂の痛みを感じる時、自分に生じる疑問。
 
「自分はなんのために生きてきたのか?」って
 
自分にとって辛いことがあったとき、わたしも考えたことがあります。
 
それは、後に自分に明確な答えが出てから
友人や母に伝えるようになりましたが
 
はっきりと「こうである」と確信を持って言えます。
 
それが
 
「あらゆる体験をするため」です。
 
 
そして、生きている間
体験をしたかった事に挑戦しなかったという思いが
後悔という精神の痛みとして出てくる事もあるわけで。
 
逆に
後悔しないように生きる事が
魂を傷つけない生き方になる。とも言えるんだろう
 
 
自分の生きた価値
苦しみの意味
自分は救われるのか
 
ちょっと、これは話し出したら長くなりそうだから
少しずつお話するとして
 
 
今を生きているなら
 
 
「生きている意味を探すより、後悔しないために
今日はどんな体験をしようかと考える」ことをオススメします

居場所も寝場所も特定しない生活で潜在意識が教えてくれたこと

わたしはここ2年ぐらい
居場所を変え、寝場所を変えて・・・と
 
フラフラと住所の特定しない生活を続けている
 
姉の家、知り合いの家、あるいは急に決めたアパートや
マンションなど
 
一箇所に留まるのは大体3ヶ月ぐらいだろうか。
 
なぜそうしているか?という明確な理由はなくて
 
「ただ、縁があったところに行く」それだけのことだった

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当然、ややこしい手続きもあるし
 
市役所に行く度に、
 
「えっと・・・では本籍はこちらで」
「で、それで今こちらにいらっしゃるということで・・」
 
と、あちこち行くもんだから出たり入ったりの手続きを
完了させるのを忘れて住所不定の無職になっていたり
 
完全に社会不適合と言ってもいい。
 
 
(いい年した女性がやることではない・・)
 

安定しない生活で罪悪感が猛烈に湧いてくる

 
実家にいる時も
見事に食べては寝ての繰り返しで
何にもしなかったから
 
 
当然、猛烈な罪悪感や不安は襲って来ました。
 
 
今まではある程度安定した生活を送って来たし
社会人として「あるべき姿」というものが
きっちり叩き込まれていたから
そこに反してダラダラしている自分に対して
 
 
「なんてやつだ」
「社会人としてあるまじき行為」
「怠け者だ」
「これじゃ、社会から置き去りになる」
「何もしていないと、生活が・・」
 
などなど
クリエイティブに湧く
罪悪感と不安を受け止めまくっていました。
 
 

「あえてその体験をした」

 
ただ、敢えて「その体験をした」と思います
 
やりたい事をやっている。のと同時に
そこに掛かるブレーキやフィルターと向き合うという
 
というカオスな体験。
 
そして自分では何も決めずに
ただ流れるまま、流れていくという
流浪人のような状態で
 
 
ただ、今楽しむためにどうするか?
ということにフォーカスしていたと思います。
 
 
これまで自分で決めた事には
あれやこれやと言い訳がついて
 
「やらなきゃいけない」「ああしなきゃ」と
 
モチベーションという名のエネルギーを
入れ続けないといけなかったものが
 
 
なくなりました。
 
 
ダメな奴で何もしない奴になりまくった。
 
 
だけど、面白いことにわたしの世界はどんどん前に進むし
 
「助けて欲しい」とも言えるようになった。
 
出会いもあったし、別れもあった。
 
くっそー!もあったし、沢山泣いた。
 
 
それは、今まで自分で決めた世界にも当然あったけど
 
 
前よりもずっと、素直になっていたし
 
清々しくて気分は最高だった
 
たった100日の中で仲間も出来た。
 
 
 
長くそこに留まることで、深く人間関係を構築出来るし
安定出来るし、楽しめるし、不安はないと
思っていたけど、そうではなくて
 
 
深く自分と関係を結んでいるなら
どこでどんな状態であっても繋がりを信じられる
 
 
と、いうより
「もともとあったわたしへの信頼を思い出せる」
 
 
それが潜在意識からのメッセージだった
 

潜在意識のメッセージに従って行くことでどうなるのか

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わたしはまだ未熟で、不安も多い。恐れもあるし
選択を間違える。
 
だけど、それは単なる通過点の一部でしかなくて
答えはまだ出てはいない。
 
 
ただ、1つだけ確信しているのは
「これがきっとわたしの望む状態に繋がっている」という事だけ
 
それだけ確信しているなら
 
どこで、何をしていようと、どんな状態であろうと
どんなにダメでも、つまらなくても
焦って答えを求めようとしなくても
 
 
必ず変化の兆しは訪れる、そう思います

わたしが潜在意識の学びに200万をかけた結果

欲しい洋服があったので
ネットで色々検索していました。

5000円のTシャツを買うのにう~~~~~~~~ん・・・・
と悩んで結局購入ボタンは押してません。

心が踊らなかったらしい。

でも、女性は洋服や宝石など、綺麗なものや可愛いものなどに
目が行ってしまいますね。それが本能と言うものだろうか

以前読んだ本に

男の王様は女性をたくさん所有する
(大奥なんかもそうだね)

女の王様は洋服や靴や宝石を所有する

そんな風に書いてありました。
(ちょっと簡単ですが)

男として、女として、確固たる地位を得た時に
力を現す象徴のようなものだったんでしょうね。


だけど、時代は変わっても
「たるべき姿」を現すために欲するものは今も変わっていないらしい。

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ちょっと話しはそれましたが

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費やしたお金200万

潜在意識のことをを学ぶのに
200万を投資したことがありました。

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その頃は
「知りたい欲」が止まらなかったんですね

自分を知りたい
人を知りたい

で、魔法みたいなものを手に入れてみたい。

って。

引き寄せの法則が魔法みたいで
興味深々だったんです。

瞑想したり、本を読んだり、ワークを実践したりと
のめり込みまくったと思います。

すると・・・


「知りたい欲」が止まらなくなりました。

まだ、「知りたい」
もっと「知りたい」


もうとめどなく「知りたい欲」が出てきます。
止められなくなるんですよ。

メカニズムが解るのって快感なんです。

それぐらい、「わたし」という存在は
興味深いものでした。


そして結果
わたしが200万投資して学んだことで

実際わたしが思っていたものは全て引き寄せました。

「思考は現実化する」というのは本当だし
わたしの経験でも間違いなくそうだと言えます。

200万の価値に相応するリターンもありました

お金で帰って来るものもありましたし
当然目に見えないものでも帰ってきました。

それが「感情」です。

引き寄せを実践するとき、

具体的に自分のなりたい状態をイメージする。
という方法がありますが

イメージの中の自分で臨場感たっぷりに
「その感情を味わう」ということが最も重要なんです

人が何かの体験をした時、その状態に
臨場感が湧くのは「感情」が伴うからです。

例えば


お化け屋敷に入ったとして
「怖ーーーー」とか
「ぎゃーーーー!」とか
そんな感情が沸かなかったとしたら

それってお化け屋敷にいるっていう臨場感ゼロでしょ。

そんな風に、そこに居るかのような
状態を作って感情が伴うことが引き寄せの鍵なのですが

これって、イメージした具体的な出来事は変わっても
そう感じた感情の状態をちゃんと引き寄せるんです。



「わたしが見えないものに200万円をかけた結果どうなったか」

投資したお金に見合う以上の

人生を楽しめる感情をたくさん味わえるような体験をしました。


捉え方もあるかもしれませんが

人によっては辛い経験じゃん!と思うことも当然ありましたけど
でも、それは自分を「知りたい」という

私の思い通りになった結果でもあります。


本当に彩り豊かな人生って
生命体の中で人にしかないものを

どれだけ活用したかで得られるのかも知れません。

友達がかけた電話を毎回スルーしてしまうワケ

大好きな友達から電話が掛かってくると

毎回時間を忘れて4時間ぐらいは話込んで止まらなくなります

楽しくて仕方がない。

 

話がどんどん前に前に進むし、後ろ向きな事は一切話さない

疑問があれば投げかけるし、それにも答えるし

彼女の語彙力や表現にいつも関心と興味があって

笑いが止まらない。

 

ただ、電話に出るのは5回に一回あればいい方。

毎回電話が鳴ってるのを気づいてもかけ直す事もしないし

かかってても出ない事もある(ひどすぎ・・)

 

だけど、ある時彼女に話たんです。

 

「電話。出らんで、ごめん

話ししたら、止まらんくなるから時間がいっぱい欲しいんよ

〇〇ちゃんと話すの楽しいけん、少しじゃ時間が足りんに」って

 

そうなんです。

彼女とはたくさん話したい。だけど、自分の状況的にその時間が

取れないと、話すの嫌なんです。

 

わがままなんです。

 

だけど、彼女は「愛があるね」と笑ってました。

 

でも、毎回なんか掛けてくれる。

「あ~電話かかってるな~」と思う。

 

だけど、なんか自分が整ってないと、彼女とは話したくないんです。

 

整ってるって、自分がダメな状態だと話さないって事じゃなくて

「ちゃんと話しを出来る環境」じゃないと嫌なんです。

 

片手間に話したくない相手なんです。

 

もしかしてわたしみたいに、、、他にもそんな風に思っている人が

あなたの周りにもいるかも知れません。

 

既読スルーされて、「何コイツ」と思っている人も

いるかもしれませんが、相手は相手のタイミングや思いがあって

そうせざるを得ないのかもしれません。

 

ここまで相手とのやり取りが高速になった今だから

前よりももっと「答えが早く欲しいんですけど。」って思うのも

時代なのかも知れないけど

 

答えを求めるのって辛いし

答えが出ない事に不安を感じているのって辛い

ずっとそのモヤモヤに意識を集中させつづけるのって

時間がもったいない気がします。

 

だったら、相手を待つ余裕を持った方が遥かに早い。

 

相手にも相手のフィールドで何かがあって

それは、あなたには何も影響するものではないから。

 

それと同じように、あなたのフィールド内で起こっている事も

相手には何も影響させない。

 

相互の関係性をよくするとしたら

もし、電話に出なくても、出られなくても

 

繋がる人にはタイミングよく繋がれるはず。と自分を信じた方がいいです

 

潜在意識には相手もあなたもなくて

「信じている」という言葉だけが入力されていくんですよね。