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人を育てる立場の人は絶対に知っておいた方がいい、劣等感が相手を支配する

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最近あった事件などを見ていて
特にこの心理についての話は重要なんだと
そう、感じています。
 
学校の先生やその上にいる先生たち
人を育てる立場にいる人たちは、絶対に知っておいた方がいい内容です。
 
以前から劣等感についての記事をアップしていますが
劣等感を持つ人の特徴を主に書いています。
 
一見みると、そうでもないように見られる
態度であったり、言葉であったりするのですが
 
「劣等感」というのは「本人が感じたくない感情」
であるため
 
「人を思ってその様にしている」と自分を美化して
相手に対する言葉や行動を
自分の思いやりであるかのように捉えるように
無意識的に選択するようになっているのです。
 

なぜ無意識的にそれを選択しているのかというと

「感じたくない感情を守るため」です。

劣等感のある人は自分の存在価値を認められないという
思いが潜在的にあります。
 
「自己の存在価値を無条件に認められない」ということは
命のレベルで見ると、とても辛いことで
 
自然の存在を認めていないというのは
命そのものの否定です。
辛いのは当たり前でしょう。
 
人も自然の産物ですが、知的生命であるため
基本的な欲求として
自分の存在価値を認めてもらいたい。という感情が存在します
 
それが幼少期
条件的に存在価値を感じた経験が多いと
 
○○をしているわたしは存在価値がある。
○○ができているわたしは存在価値がある
 
と、何かの条件を満たさないと「わたし」という
存在は認めてもらえない。と判断します
 
それを成長段階での様々な人との交流のなかで
「これがわたしなんだ」
と決定を繰り返しながら大人になっていきます。
 
これは、TA(交流分析)でも一番最初に
伝えられることでもあります。
 

条件付きの存在価値の認知は人の心と体の成長を

ストップさせます。

 
現に、アメリカで実話を元にした映画がありました。
 
5歳の女の子が母親からネグレクトを受け続けて
体の成長がストップし、歩くこともできなかったのですが
病院の看護師や先生の無条件の愛情をうけ
歩行したり、話たりと、心と体の成長をしていくという話です。
 
人の心と体の成長に必要なのは
無条件の愛情であると断言できます。
 
 

無条件の愛情とは「自己犠牲」の上に

成り立つものではない。

 
無条件の愛情というと、キリスト教のように
崇高な教えを思い出す人もいるかもしれません。
 
相手のために自己を犠牲にしても、それを責めることなく
どんな痛みも受け入れるという愛情の深さです。
 
それが、無条件の愛情であると信じている人はいませんでしょうか?
 
わたしは間違いなくそうでした。
 
 
宗教的な思想は「人のために」という大義があり、
人のお役にたち、人のために働かせて頂く。という思想。
それは本当に素晴らしい考えだとも思っています。
 
しかし、
 
「人」とはあなた以外の・・ということではなく
 
あなた自身もその中の「人」であると言えます。
 
 
劣等感という前提思考を上塗りするように
「相手のために」という
一見「快」である宗教的で崇高な思考で相手に何かをしようとすることで、
 
行動と奥底の感情が一致せずに
人を責めたり、イライラしたりという不快を感じることになります
 
それは単に、劣等感をベースに
人のために何かをすることで
相手よりも優位な立場を取り、自分を安心させているに過ぎません。
 
「自分には価値があるでしょ」
と相手に気づいてもらいたい。
ただ、それだけが根底にあるのです。
 
ですが
 
これが思いとおりに行かないと
感情的で衝動的な言葉や行動となってしまいます
 
それを論理的に押さえる人でも、チクリと嫌味ぐらいは言います。
 
そうやって、相手の感情の中に
自分も持っている「劣等感」を植え付け
相手よりも優位な自分で居続けることを選択しているのです。
 

この相互のやり取りは自分から断ち切らない限り

ずっと続くことになります。

 
仮に断ち切ったとして
全然お構いなし。の態度を取ると、劣等感のある人は
どうにかして相手をマウンティングしようと試みます。
 
相手に対し「思いやり」という大義名分をかざして
自分より弱い立場にしようと言葉や態度を示すのです。
 
自分より目上の人や社会的に地位のある人に
それをされたら相手は、その人に認められないと価値がないと思うか
「自分はつまらない人間なんだ」と無意識的に感じ取り
 
同じようなループの中にはいってしまうのです。
 
 
潜在意識の中に植えつけられたものは
自動的に反応として言葉や態度に現れます。
 
あなたに、もしそのようなことがあるとしたら絶対に
気づいてもらいたいと思います。
 
今、ここでブログを強烈に嫌な気分で見ているあなたでも
息をしてそこにそうやって存在しているだけで
 
十分に存在の価値があるということ。
 
なんにもできなくても
うまくいかなくても
失敗をしていても
モヤモヤしていても
つまづいて立ち上がる気力がなくても
 
 
それでも、存在しているだけでこの世界では十分に
だれかの役にたっています。
 
現に、見ているあなたがいるからこそ、わたしにとっては
ありがたく、嬉しい存在には間違いありません。
 
人のために何かをしようとしなくても
あなたという「人」のために、自分をもっと見つめてください。
 
そして、どうしてもこの連鎖を断ち切って
いち早くいい気分でいてほしいと思います。
 
 
それが人を育てる人が真っ先に知ったほうがいい事実です