潜在意識と自己暗示のサイト

I.O.公式ブログ「ストーリーを語ろう。人生のクリエイターになろう。」

【すり替え】痛いところをつかれたときの反応

自分の痛いところをつかれた時の反応
 
共感、笑う、無視する、雄弁になるという内容。
 
先月4つ記事にしました。
 
 
その中の「雄弁」のなかに
 
「すり替え」があるっていうことに
気づいた人、いると思います。
 
 
自分に対して
 
 
ここをこうした方がいいよ。
 
これをこんなふうにしてみたらどう?
 
こんな考え方はどう?
 
 
と言うアドバイスを受けた時
 
 
瞬時に過去の出来事から
 
自分がそう出来ていた事を話始める
 
 
「出来ていた自分」のエピソードを話すか
 
もしくは、他の人の
 
「出来ていなかった」エピソードを話す。
 
 
と言うものがあり。
 
 
かくいうわたしも、そうしている事があったという。
 
 
無意識でやっているんです。
 
 
しかも、そのエピソード話の長いこと
長いこと。。。。
 
 
どんだけ「出来ていない自分を感じたくないんだ」って話。
 
 
 
 
 
まあ。巧妙に話をずらして行くんですよね。
 
そんな時って。
 
 
 
自分のなかに
 
「出来なかった」や
 
「言えなかった」などの
 
後悔や悔しさや、惨めさの感情が残っている時
 
 
それを感じたくないと自分を守る。
 
 
 
どんなアドバイス
 
 
「出来ていない」を感じてしまうから
 
 
自分を徹底的に守ろうとする。
 
 
 
 
 
「ちゃんとやらなきゃいけない」とか
 
「キチンと出来ないといけない」とか
 
 
そんな観念から始まっていて
 
 
幼い頃からずっとその事に縛られて来た証拠。
 
そうしないと自分の価値を得られないと
決めつけて自分にかけて来た暗示。
 
 
自分が決めている価値観のなかで
 
完璧に出来ないと自分を認めない。
 
 
頑張って頑張って頑張り続けて
それでもまだ、自分はいつまでもつまらないからと
 
ずっと頑張り続ける事を強いる。
 
 
たまに心も体も疲れる。
 
 
でも頑張っていることが美学。
 
 
だからこそ、相手に
 
「できてない」を言われるのがいやで仕方ない。
 
 
 
っていうのは
 
 
沢山の心理学の人がもうすでに言っているし
 
 
もう、ほとんどの人がその本質に触れている。
 
 
だからこそ
 
知識を得て沢山知っていることで
 
尚更自分の中にある本当の事実を捻じ曲げることにもなってしまう
 
 
そうやってすり替えは
 
「体験と知識」の両方で行われるから
 
 
相手にはややこしくて曖昧だし
 
 
 
なにより、自分をいつも「ごまかす」と言う
 
潜在意識へのメッセージをプレゼントしてしまう
 
 
 
 
自分をごまかしていないだろうか。
 
決めつけていないだろうか。
 
 
 
 
相手と話をしている時、
 
自分がいつ、過去の情報にアクセスしているのか
 
関心をもって観察してみてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

本当に心からありがとうが湧くとき

それは
 
 
 
「当たり前」が壊れた時。
 
 
 
 
 
 
何かに
 
 
 
「葛藤」して行き着いた先。
 
 
 
 
 
 
 
「当たり前」のことに奇跡を感じた時
 
 
 
 
 
心から
 
 
「湧く感謝」は
 
 
 
そんな風にして現れる。
 
 
 

 

 

痛いところをつかれた時の人への攻撃パターン 「共感」

傷つきたくない。
 
悲しい思いをしたくない
 
辛さから逃げたい
 
 
そんな風に思うことは沢山ある
 
 
だけど「自分の中にある感じた事のある感情」
 
から逃げる事ができない。
 
 
過去の記憶の中に
 
「自分が感じたくない感情」の種があって
 
それをずっと「守り続けてきた」から
 
今でもそれを「守る」為にあらゆる行動によって
 
出来るだけ感じないように回避している
 
 
 
*****
 
 
人から「お前はこんな奴だからダメなんだ」
 
 
と言われた時。
 
 
「そうなんですよね」
 
「そこがだめだと思ってたんですよ」
 
「やっぱダメですよね」
 
 
と相手の話の内容に共感をする。
 
 
「共感」をした瞬間、相手は自分の言っている事が
 
その人に伝わったであろうと思ってしまうけど
 
本人にしてみれば
 
 
それは痛いところから「回避」するために
 
続けてきた手段。
 
 
「共感」というのは「理解ではない」
 
 
相手の話の前では、「自分のことは解っています」
 
と見せかけだけの態度で
 
 
本当は
 
 
相手に「共感」する事で
 
その人から「嫌われないように」する事だけを目的とした行為。
 
 
たしかに、その人は
自分に対して「だからお前はダメなんだ」という
 
言葉を発しているけれど
 
 
そこに「やっぱりそうだ」と共感する事で
 
 
相手からの見た目
自分で自分を見ている見た目が一緒なことに
 
安心しているだけ
 
 
つまらない奴だ。と言われている方が
 
「安心」
 
 
なぜなら、何もしなくていいから。
 
相手の行った通りである方が楽だから。
 
 
そして、「相手が何を求めているか」という事など
 
よくわかってはいない。
 
 
「だからお前はダメなんだ」と言われた時
 
 
「どんな風にしたらいいですか?」
 
と質問をしたとしたら相手もきっと
 
成長しようとしている事に喜びを感じたかもしれない
 
 
しかし、
 
「自己卑下」を受け入れて共感した瞬間
 
相手にとっては、「残念」と思えるような「不快」を
 
感じさせてしまうことになる。
 
 
 
お笑い芸人さんやタレントさんが
 
相手をディスる時のように「ネタ」としてか
 
もしくは何かしらの意図があるものなら別の話だけど
 
 
 
 
そうだよなー!お前ダメだもんなーwwと
 
 
相手の自己卑下を2重3重にしてしまうとしたら
 
 
あなたにもきっと劣等感があるはず
 
 
(劣等感は「悪感情」ではなくて
バランスの悪さが課題なだけ。)
 
 
 
自分の痛いところをさらけ出しているように見えて
実はそれをキチンと見てはいない。
 
「見ているような気になっている」だけ
 
 
それを「共感」によって
曖昧にしているという事
 
 
それが相手に対して「あいまいな態度」として
現れる事になる

痛い部分をつかれた時の人への攻撃パターン

人から嫌われるのが怖い。
 
 
無視されたり、ディスられたりするんじゃないか?
 
 
と、考えてしまう。
 
 
もしかしたら、周りがみんな
 
わたしを嫌いになってしまうかも。
 
 
とも、考える。
 
 
 
あの人がこういって
 
この人がこういって
 
 
そんでこうなってああなって
 
 
と、芋づる式に次々と嫌われるであろう
図式が頭の中にクリエイティブに出てくる。
 
 
これが、瞬間的に頭の中をよぎって
言葉を出す事をためらってしまう。
 
 
そんな事もあると思います
 
 
今まで溜め込んでいた、自分の思っている事を出すことは
 
 
溜め込みすぎて来た人は特に困難で、
 
 
溜め込みすぎているからこそ
 
言葉も表情も出した時には「攻撃的」になってしまう。
 
 
自分では、上手く伝えたつもりでも
 
「溜め込みすぎているから」
 
 
伝えるときには「今まで溜めて積み重なった分」が
 
加算されていて
 
 
急に「感情的にものを言っている」と
 
取られてしまう。
 
 
ちょっとずつでも自分を出すようにしていれば
 
溜まりきったガスが抜けて
 
突然「人が変わったように怒ってる」
 
とは、思われにくくなるらしい。
 
 
***
 
 
ポーカーフェイスで、感情的な事もないし
冷静に物事を判断し
 
口調も穏やかながら
 
 
実は、内に秘めている「自分の中の敵」を
理性で押さえつけ続けてきた人がいて
 
 
自分の思っている本心は自分の中だけで
ずっと握り締めている人がいた。
 
 
ある日、自分よりも一回り上の
知り合いに、「君は自分を卑下している」と
 
 
一言言われると
 
 
ほくそ笑みというか、歪んだ表情でなんとか
笑っているように見えた。
 
 
後にその事について改めて話をしていると
最初は冷静に「あの人はこんな人のようだ」などと
 
 
相手を分析していたけれど
 
 
内側に刺さった「本当の自分への刃」が効いていたのか
 
 
わたしが質問をした
 
「でも、実はそんなところもあるって
自分では気づいてるんじゃないの?」
 
 
という一言に逆上して
それから一切の言葉を話さなくなった。
 
 
彼の場合の人に対する攻撃は「存在を無視する」
 
という事のようだ。
 
 
口ゲンカだけが攻撃ではない。
人に対しての攻撃の仕方は様々で
 
 
たまたまは彼はそうだった。
 
 
そうなると、完全に「自分の殻」に閉じこもって
出てくる事はない。
 
 
それから、自分の気持ちが治まるまで
自分の世界に浸りきって
 
他人の分析をしたり、
自分の考えを正当化出来るような
精神的な欠陥を探したりする。
 
(例えば自分がこうなのは
コミュ障だからだ。など)
 
 
もしくは、
 
自分の好きなことなどに
熱中して、全て忘れようとするのだ。
 
 
その間、相手の存在は「全て無きもの」にする
 
 
そして、何事も無かったかのように
また、いつもの自分に戻る。
 
 
自分が自分の殻に閉じこもっている間
 
相手がどのような状態であるか、
どんな風に自分を見ているかなど
 
考える余裕はない。
 
 
「見えていない」
 
 
だけど、明らかに相手に「不快」を与えている事に
 
間違いはないわけで
 
 
それを与えているなど、思いもしない。
 
 
無意識だからだ。
 
 
自分の痛いところを「隠そう、隠そう」と
 
意識するほど
 
人よってはそれがよく見えるもの。
 
 
人を傷つけたり、他人を騙したり、嘘をついたり
する事など、よくある話で
 
 
単に
そうすることで自分を守ってきただけ。
 
 
聞けば彼の行動も子供の頃からの癖のようだった。
 
人によって沢山、自分の守り方があるもんです。
 
 
でもその人への攻撃って無視するだけじゃなくて
 
笑うって事にも出てくる見たい。
 
それはまた次回。
 

それは友達じゃなくてただの知り合い。

友達100人出来るかなー
100人で食べたいなー
富士山の上でおにぎりをー
 
って。

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そんなおったら大変や。
 
 
100人でおにぎり食べてたら狭いし。
 
 
誰がどこにおるか解らんから
 
結局周りの数人しか認識できんし。
 
 
ひねくれたツッコミを入れましたが
 
 
 
わたしには友達と呼べる人など
 
ほとんどいないからというヒガミじゃないよ。
 
 
 

友達じゃなくて「知り合い」

 
 
単に、同じ学校だった人だし
単に、同じ職場の人だっただけ
 
 
たぶん、その場を楽しめて
依存し合って、ワイワイやれて。。。と
 
 
それは友達だとは、わたしにはとても思えなくて
 
 
集団に帰属していないと「不安」と言う事だけで
 
繋がりを求めたり一緒にいるだけだと思ってる。
 
 
たしかに、人との繋がりは大切だし
かけがえの無いものだという事はわかる。
 
 
でも、友達。と言えるかと言うと
 
私にとってはそうじゃないことの方が多い。
 
 
それはわたしが学生時代にそう思ったのがきっかけ。
 
 
当時の私といえば
「どこかに帰属しているという安心」だけで
 
 
周りの同級生との関係性を繋いで来たし
なんかしらんけど、そうしていないと
1人でいる事が怖かったんだよね。
 
 
小学生の時いじめられてた事もあったから。
 
 
たしかに楽しい思い出。はあったけど
 
真に友達。と言えるか。と言うとそうじゃない。
 
 
 
そういえば昔、タモリさんがこんなこと言ってたっけ。
 
『友人なんて、いなくてもいいんだ。友人なんていなくても全然やっていける。何をもって友人と定義するかだ。パーッと騒いで、お喋りするぐらいの仲をそう言うのなら、俺にも友人は数えきれないくらいいる。』
 
 
 
確かにな。と思った。
 
 
今まで友達だと思ってた人は
 
友達ではなく単なる「知り合いかよ」って
 
16の時からだんだん思うようになっていって
 
お友達にこだわる事もなくなった
 
相手に対してわたしは何を期待してるんだろうって
 
疑問に思ったし、途中でそんな事考えるのも嫌になった。
 
 
たぶん、それぐらいの頃には
もう、生まれた町には居なかったしな・・・
 
 
歪みまくってるけど
 

友達と呼べる人って。

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わたしが
友達だと思っている人に対して思うことは
 
相手が
 
どんな状態であろうと
 
なんであろうと
 
つまらんくても
 
よくても
 
最高でも
 
最低でも
 
わたしは相手に対して何も変わらないと思っていて
 
 
ただ、そんな傾向だったのよね。
 
と笑って話せる。
 
もし、自分に何も力がなくて
相手の事を助けてあげられない状態だったとしたら
 
 
自分の時間を使って
そうなれるように勉強するし。努力もする。
 
 
でも、そんな事押し付けるつもりもないし
 
「やりたいからやってるだけだし」
 
 
相手に期待もしないし、もし仮に裏切られても別にしらん。
 
 
わたしを友達だって言ってくれる人には
この歪んだわたしに対して何て有難い事を言ってくれるんだ。
 
と思うけど、実際の所きっとその人にとっての私は
 
 
「知り合い」だろう
 
 
わたしがニートでその日暮らしの
ホームレスだったとしたら、きっと
 
 
相手はわたしの事を「お友達なんよーーーー!」と
周りには言わないだろうから。
 
 
相手によって、自分がどう見られるか?って気にして
 
 
この人が友達だって言ったら恥ずかしい。って
思うような相手なら
 
 
それは「単なる知り合い」だし「顔見知り」で
話のネタの一部になるだけ。
 
 
 
だから、わたしには友達と呼べる人などそんなにいない。
 
 
それよりも、一番身近で一生のお付き合いの自分と
真に友達になってる方がよっぽど気分がいいと思う。

自分に自信がないのは自我を信じているから

わたしは自分に自信がもてない。
 
 
それは、
 
 
自分自身が自分のことをどう思っているのか?
という意識や観念という
 
 
 

「自我」を 信じているから、自信が持てないだけ

 
 
 
人の観念って結構沢山あるもので
 
以前、ごく一部として渡された観念の分厚いファイル3つ。
 
 
それは自分に対して、他者に対して、社会通念
 
ことわざやしつけの一貫で聞いたことのある言葉まで
 
様々なものがありました。
 
 
これでごく一部か。。。。とゲンナリしたのを覚えています。
 
 
その頃わたしは
 
あるワークに取り組んでいて
 
まず、自分の観念を明確にして
 
「手放す」という毎日でした。
 
 
人の観念って
 
無数のイメージがくっついていて
その言葉を聞くだけでたくさんのイメージが湧いてきます
 
 

観念の形成

 
例えば
 
6つ。というと、
 
船が6艘、リンゴが6個、鉛筆6本、ハンバーグ6つ
 
などなど。。。あらゆるものがイメージ出てくるように
 
 
 
 
 
例えばそれが
 
「お友達とは仲良くするもの」
 
という観念となった時
 
 
この1つの言葉に対して、あるイメージが臨場感をもって
湧いてくるんです
 
その言葉に
 
経験や情報などによる、自分の心の働き(感情)が加わって
 
「お友達とは仲良くするものである」
 
と言うことを「当たり前」と思い込むという仕組みが
 
 
観念の形成。
 
 
さっきの数字の話に当てはめると
 
 
お友達と話すと面白ろいし
遊びに行くと楽しいし
同じゲームにはまっているし
助けてくれるし
いじめられなくてすむし
お母さんがそう言ったし
お友達は宝物って言ってたし
人生にはお友達が絶対必要って聞いたし
 
(↑↑船やリンゴなど)
 
 
だから
 
「お友達とは仲良くするもの」
 
(↑↑6つと言う言葉)
 
 
 
しかし、お友達を裏切る人もいるし、仲良くできない人もいる。
 
 
そんな人を観ると
 
 
「なんで仲良く出来ないんだろう?」
 
と疑問に思ったかもしれません
 
 
 
それはその人の観念の形成の過程が
あなたとは違うから。と言うだけで
 
 
「本人にとってはそれが当たり前のこと」
 
 
 
「自分に自信がない」と言うのも
 
自分が信じているものが
 
意識の方向性や観念などの「自我」だからそうなるだけです。
 
 
 
靴を揃えるのが当たり前
 
と言う人もいれば
 
靴を揃えないのが当たり前
 
と言う人もいる。
 
 
 
ごはんは正座をしてお行儀よくご飯を食べるもの
 
と、いう当たり前があっても
 
 
韓国人のお行儀よくは
 
膝を立てて食べることだったりする。
 
 
そうやって、考え方や違いは様々ある中で
 
自分の「固定された自我」だけを信じているから
 
 
 
自分に自信を持つ。と言う考えに抵抗があるだけ
 
 
 
自我は変化するし、成長もする。
まずは、自信が持てないと思っている自我を疑う事

答えを求めなくてもいいよ

体の調子が悪い。
 
 
ネットでそのような状態が何なのか?を検索
 
 
精神的に落ち込んでいる
 
 
なぜ、落ち込むのかを検索
 
 
グーグル検索で割とトップの方の
 
「答えが見つかりそうだと感じた」サイトをクリック
 
 
「なぜそうなるのか?」が出てくる
 
 
答えが出てくるまでおおよそ30秒ぐらい。
 
 
 
早い。
 
 
 
 
すぐに答えが出てくる。
 
 
だから、自分の目指している所に到達出来るのも
 
 
そのぐらいの「秒」で答えが出てこないと
 
 
ダメじゃん。なんて思いがちで。
 
 
ダメじゃん。。と思ったら
 
また新たに検索して
 
「秒」で今の気分がスッキリするような
 
 
答えを求め始める。
 
 
でも、それって結局の所
自分にしっくり来るかどうかという
 
 
主観による判断だし
 
 
 
あまりにも早く答えにたどり着くのに
 
現実となると、なかなか求めている答えに
 
 
たどり着かないから
 
 
モヤモヤした自分を感じたくなくて
 
 
今の自分を秒で気分よくさせる為に
 
 
過去の情報からの考えで
 
 
「まあ、そんなもんでしょ」などと
 
 
落ち着いて終わらせる。
 
 
挑戦しようとして、変化をしようとして
 
 
一旦その考えに触れてみても
 
 
即座にそうやって自分の意思を曲げてしまうのも
 
 
 
 
 
なによりも、焦って答えを求めようとしなくても
 
 
答えはおのずと出てくるもので
 
 
どうにかしようとすることもない。
 
 
人は立派になろうとか、素晴らしくなろうとか
 
知識人でいようとして
 
 
様々な情報を毎日検索している
 
 
答えを求めて何かを必死に探している。
 
 
その情報には「答えに繋がるきっかけ」があるだけで
 
 
明確な「答え」ではない。
 
 
 
有益な情報を目の前にしたときに
 
すぐに自分に答えが出るなんて、思い込みは外した方がいい。
 
 
そして、日々自分の変化の過程の中で
 
答えをすぐに求めようとせずに
 
 
自分のあるがままを
 
しばらく受け入れて観ることが大事で
 
 
そのためには自分の事実から目をそらすことは
 
しないほうがいい。
 
 
 
今の状況がどんなに辛くても
 
 
焦って答えを求めようとしなくてもいいよ。
 
 
 
それはすでに、用意されているから
 
 
 
今は、解らなくてもいいんだって思うこと
 
 
自分は今何を感じたいのか
 
 
その選択の方向をいつも明確に意識する事の方が
 
よっぽど大事なんじゃないかな。って思っている